保護者会 ヘレン・ケラー・セッション
2009年11月21日


 11月21日(土)にヨハネ研究の森の保護者会が開催されました。(写真集もご覧下さい)
 この日のメイン・イベントとなる、保護者、生徒、スタッフあわせて200名規模の合同セッションの様子をレポートします。
 2002年度から継続して検討してきている「ヘレン・ケラー」について、1962年制作の映画『奇跡の人』を全員で観たあと、大下先生コーディネートによるセッションが始まりました。
 約2時間にわたってのセッションの様子をご披露します。



大下T 今日は、ヘレン・ケラーの『奇跡の人』を一緒に見ていただきました。それをもとに生徒とのやり取りをしていきたいと思います。それを通して、ヨハネ研究の森が検討を進めていることについて少しでも知っていただく機会になればと思います。
 ヨハネ研究の森では、2002年からヘレン・ケラーを検討してきているのですが、家族のありかたについて、あるいは、ことばについて、折に触れてこの映画を観ています。ヨハネ研究の森の国語というもので目指しているものは、(目の前にいる人との間でのみ理解可能な)「お喋り」ではなく、自分の思いを(その場にいない人にも理解可能な)「書き言葉」で表現するというところにあり、ヘレン・ケラーが非常に参考になるものであると。

 人類は、ことばを獲得することによって大きな飛躍をしました。
 ヘレン・ケラーもことばを獲得することを通して大きく飛躍をした。

 しつけもできず、獣のように暴れているヘレン・ケラーに対して、家庭教師のサリバン先生が一生懸命「ことば」を教えようとするのだけれど、家族がヘレンの逃げ場所になってしまいそれを許さない。サリバン先生のアイディアで、ヘレンと二人きりの生活をはじめるものの、寂しさに絶えられない母親の意向で、ヘレンはまもなく家に戻されてしまいます。その後、わがままをしようとするヘレンに、サリバン先生は水を汲ませようと井戸端に連れて行きますが、そこで水に触れたヘレンに遠い記憶がよみがえり、初めて「ことば」の存在を知る。このような感動的なシーンで終わりました。
 日本では、「ヘレン・ケラー 奇跡の人」と表現されることが多いですが、ヘレン・ケラーは日常会話ができるようになっただけではなく、それを文字にして表すことを覚え、大学に行き、目の見えない人のためにいろいろな活動をして世界中を駆け巡るようになっていく。フランスに行って、フランス語でスピーチしたり。この映画を通して、「奇跡の人」はヘレンのことなのか、サリバンのことなのか、ということも議論になったこともあります。また、この映像から受ける印象と実際はどうなのかということを考えたりもしました。つい最近、アメリカで出版された本の中で、サリバン先生は奇跡の人ではないというようなことも言われたりしているようです。本当のサリバン先生、本当のヘレン・ケラーはどういうものだったのか。
 先日行われた研修会でのモデル授業で、大場さんがすごいことを言っていました。大場さん、もう一度、どのようなことだったかお話してください。

大場 「奇跡の人」の映画や舞台を観て、ことばがあるのとないので、一体何が違うのかということを言われていたんだけれど、サリバン先生の書いた手紙の中で、ヘレンが水の名前を知りたがっているということが書いてあって、物に名前があるということを知らなかったわけではなかったのではないか。そのような話をしました。


大下T 確かに、「彼女は何かのものの名前を知りたいときには、知りたいものを指さして私の手を叩きます」とありますね。これは井戸端のシーンより前なんですよね。そうすると、これは、映画と実際は違っていたということですね。ヘレンは井戸のシーンの朝には物の名前をたずねていたと。

中内 ことばを知っていたとすると、一体何が起こったのか。文字を知ったということではないか。ヘレンは何かを伝えるときに、ジェスチャーで表現していた。人の口の中に手を入れたりして、自分も話したいと表していたりしている。ヘレンはことばがあることを知っていたのではないか。それで、人が何かをやり取りしていることは知っていた。ジェスチャー以外に自分の思いを表現する方法が分からなかった。それで、あのポンプのシーンでは、その文字を組み合わせて表現できるということが分かったということなのではないか。

今井 ヘレン・ケラーの『私の生涯』とサリバン先生の『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』で食い違っている部分があって、ヘレンは「物に名前があるということは分かっていた」と言っているんです。ポンプのところで物に名前があると分かったというのは、ヘレンがそれを分かっているということに、サリバン先生が気付いたということなんじゃないかと。

鈴木 ポンプ以降にヘレン・ケラーが飛躍を遂げたというのはどういうことなのか。ヘレンはジェスチャーで表現をしていた。それはことばと言えるのか。記号なのではないか。記号を作ることは難しくない。野球のサインはバントだったらバントと決めればできるけれど、それで会話ができるかと言われると非常に怪しい。ヘレン・ケラーがジェスチャーで表そうとしていたのは、一種の記号だったんじゃないかと思う。ヘレン・ケラーはポンプのシーン以降に記号からことばへと飛躍をとげたのではないか。

平川 ことばを使わない思考というのは存在するのだろうか? 以前、高雄先生が国語を学ぶ目的として「思考の言語化」ということをおっしゃっていたんですが、それがひっかかって。僕が自分の記憶をさかのぼっていくと、全ての記憶にことばが伴っている。ことばがないと、物を区別したり、何かを理解したりすることもできないように思ってしまいます。ことばを使わない思考というものは存在しないのではないかと思ってしまう。でも、これは自分の仮説ですが、ヘレン・ケラーはことばにならない思考があったんじゃないかと思うんです。自分なりのことば、鈴木くんが言った記号のようなものを使って思考を作り上げていた。それを指文字を使って、人と共有できるということを学んだのではないかと思います。赤ちゃんも、ことばがないから考えられないとしたら、ことばを覚えることもできないのではないか。まだ、それはよく分からないのですが、これからぜひ調べてみたいと思っています。

石黒 今の話を聞いていて、記号やことば、ことばになる以前の思考というものがあるということなんですが。記号というものは、伝えたいものが一対一対応をしている。ウォーターということばを理解した後に、ヘレンの中になにが起こったかというと、ことばが単なる一対一対応なのではなく、文脈によってその意味も変わりうるというようなことをこの段階で発見したのではないかとも思えるのです。

大下T なるほど。みなさん非常に高級な議論をしていますが、大学生や大学院生でも議論できないような発達心理学や言語学の本質に迫っているものなのではないかと思います。こんなことを大学のAO入試の志願票にでも書いてあったら、大学の先生も、「この学生はぜひ採りたい」と思うかもしれませんね。
 本日ご参加いただいた保護者の皆様にぜひお伝えしておかなければならないことは、生徒たちが発言した内容は、どこかの教科書に書いてあることではなくて、自らの頭で考えて、自らの疑問を解き明かそうとして、その見解を、「書き言葉」を駆使して表現しようとしていること、またそういうことを日々積み重ねているということです。
 私たちが知識を伝達し、それを暗記しようとしているわけではありません。何度も映画を繰り返し観たり、議論を重ねていく中で、本当のところどうなっているのだろうかと、それぞれが自分の問題として考えるようになっていっているということです。他者の発言を聞いて、自分の理解を再構成していく、書籍に触れて新たな発見を積み上げていく、そのようなプロセスの延長線に、一人ひとりの独自の見解がつくられていきます。
 試験があるから仕方なくやらされる「お勉強」とはほど遠いところに、実は学びの本質があると確信しています。「ヨハネ研究の森」の学びは、そのような充実感あふれる学びに少しでも近づきたいと念願し、このような学習スタイルを取り入れています。今日はその一端を見ていただけたのではないかと思っています。
 本日は、生徒の数とほぼ同数の保護者の皆様にお集まりいただきました。このような活気あふれる保護者会は、あまり例がないのではないかと思います。本当にありがとうございました。