永平寺『修行の四季』を観て
2010年4月8日(木)
4月8日(木)、曹洞宗本山「永平寺」の修行の様子を描いたNHKハイビジョンスペシャル永平寺『修行の四季』を観ました。ヨハネ研究の森ではこの映像を何度も繰り返し観て検討しています。
今回も主任研究員と研究員の皆で映像を見た後に、横瀬先生のレクチャーが行われました。そこでは、永平寺とヨハネ研究の森の意外な共通点が語られました。


住めば都

この永平寺の映像を観て、いろんなことを検討することができるのですが、まず、永平寺で修行したいという僧が最初に山門に来たとき、なかなか入れてもらえないというシーンがあったでしょう。先輩の僧が、新参者に「本当に覚悟はできているのか」って問いかけていたところ。

永平寺は何百年もずっと修行が行われ続けています。朝起きて、食事して、座禅して、というのを延々と繰り返している。その中には、細かい作法もいろいろとあって日々それを実践していると言っていました。

作法というのは、最初からあったものではありません。毎日毎日の実践の中で、こうしたらいいだろうっていうスタイルのようなものが作り上げられていったのです。日々の繰り返しの中で、ご飯のよそい方や食べ方、片づけ方まで確立していったのです。

修行のために徹底して日々の細かな作法を実践していく永平寺という場に新参者として入っていく人は、そういう作法をきちんとふまえなさいと言われます。しかし、「こうやるんだ」と教えられても頭では分かりますが、体はすぐには変わりません。

だから、二泊三日の体験ツアーで永平寺に行ったりすると、細々とした作法に圧倒されてしまって「こんな厳しいなんて、大変だ」と逃げ出したくなるでしょう。しかし、それでも逃げずに二年、三年と続けてやっていると、そういう作法が体になじんでくるのです。

だから、もしそこで生きていきたいと思うのなら、それは永平寺という修行の場に参加することなわけですから、そこのやり方というものをきちんと踏まえる必要があるのです。それができないというのならもう、どうにもならない。

細かい作法を指導されて、「めんどうくさい」とか「つらい」というのは、それはその場で生きようとしていないということなのです。永平寺にいる人たちがみんな当たり前のようにやっていることを「やりたくない」というのでは、そこでは生きていくことができません。

しかし、今まで自分が生きてきた「生き方」と違うし、それまでのやり方は通用しないから「なんでこんなことしなきゃいけないんだろう」とか「こんなところろくなところじゃない」ということを考えるなと言われたって考えてしまう。雲水(永平寺の修行僧)になるのだから、そんな雑念はかき消してしまえと言われたって、瞬間的にパッと思ってしまう。体がそう簡単には受け入れないのです。今回新しく入ってきた新入生もそうでしょう。「なんかイヤだな。家にいた方がいいな」とかみんな思うわけですよ。

ところが、よくよく見てみると、永平寺やヨハネ研究の森に一年、二年と住んでいると「その場でやっていることに没入しよう」とし始める。その場で求められていることを徹底して実践するようになる。それは、余計なことを考えていたら出来ません。そうすると、「イヤだなぁ」とか「家に帰りたい」ということを考えなくなっていくのです。それを人が見たら「あの人はこの場と一体になろうとしているな」とうつる。


その場と一体になって学ぶ

その場と一体になろうとする人がいる一方で、いつまでたっても「ここは自分の居場所じゃない」、「早く出て行きたい」と心ここにあらずみたいな状態の人がいます。これはとても不幸なこと。

よく日本人は英語が苦手だと言われます。なかなかうまくならない。そして、それはネイティブと接する機会が少ないからで、そういう場所に行けばすぐに英語がペラペラになると思って留学したりする人がいます。みんな行くんだけど、なかなかうまく身につかない。

そうすると、日本人は民族的に英語が身につかない民族なのだとか、もっと小さいうちに英語圏に行かないとダメだとか言われる。

しかし、本当にそうなのでしょうか。今、大相撲の世界では三割ぐらいが海外力士です。あの人たちはいろいろな国から来ているけれど、日本に来る前は日本語なんて全く知りません。

海外から強そうな若い人を相撲協会がスカウトして連れてきて、相撲部屋に入れる。外国人力士は、そこで一年三百六十五日を過ごします。

彼らは日本語の勉強なんかしていません。相撲部屋に来て、そこでやっていることを全部できるようにしていく。掃除から始まって、お使いをしたり、ちゃんこ料理を作ったり、先輩の背中流したり、なんでこんなことしなくてはいけないのかって思うだろうけれど、そういう具体的なことを一つひとつ見よう見真似でやるようになる。

そして、自分の国に帰りたいと思っているかもしれないけれど、そこで様々なことをやっているうちに、あきらめて、「相撲部屋と一体になろう」と思うようになる。そうすると、もう日本人より日本人らしくなっていくでしょう。彼らの話す日本語は、本当に立派な日本語です。

日本語学校に行って勉強したわけではありません。自分が生活している相撲部屋と一つになりきる。そして、相撲取りとしてちゃんと成長できるように、相撲部屋でやることを全部やる。相撲取りとしての体を作るために食べるもの食べて、体を作っていく。その過程でことばもちゃんとしてくるのです。

だから、日本人が海外に留学して英語が身に着かないというのは、行った場所に馴染めなかったり、馴染もうとしなかったり、その場で一体になって徹底するということができなかった人なのです。「私はよそ者です」なんて顔をしていては何も身につかないということです。


ヨハネ生の体は共鳴する体

ヨハネ生はよく合唱します。しかも、限られた短期間の練習でとても上手に歌う。これは簡単そうに見えますが、本当に難しい。技術的な指導なんて大したことはしていないのに、みんなとんでもなく上手でしょう。これはなぜなのかというと、「共鳴する」、「共振する」、「うねり」があったらそれと同じように反応できるようになっているからなのです。

人間は、一人で生きているのではありません。根本的には、他の人や物、その場に共鳴して、体から環境と一つになろうとします。ヨハネ生になるということは、そういう体に磨きがかかるということなのです。

だから、どんな大学の先生が来て話をしても、共鳴することができるのです。話だけを聞いたら大人だって何を言っているか分からないような難しい話でも、根本のところで体が相手に同調したり、「そうだよね。」、「わかる、わかる。」そういう感覚が起こってくるのです。

その共鳴したり、共感したりする感覚が先にあって、それからことばで細かく分かっていくのです。人間が何かを「理解する」ということは、そういうことが根本にあるのですが、そういうことはあまり検討されていません。言語の獲得というのも根本的にはそういうものと関係しているのです。その場と一体になること、スタイルを作ること、共鳴することは密接につながっているのです。ヨハネ研究の森での生活から、自分自身のこととしてそういうことを考えてみると非常に面白いのではないかと思います。