「学力とはなにか」
2010年6月19日(土)ヨハネ研究の森保護者会

2010年6月19日、ヨハネ研究の森コースの保護者会が行われました。
この日のメインテーマは、「学力とは何か」について。
テストで高い点数を取れるということが「学力が高い」という考え方が一般的ですが、ヨハネ研究の森は、それは学力の一部分だと考えています。ヨハネ研究の森の考える学力とは。



テストができる=頭がいい?


横瀬 PISAテストは、経済協力開発機構(OECD)による国際的な生徒の学習到達度調査のことです。日本も2000年から調査をしていますが、最近その成績が低下しているということで、学力低下が問題だと騒がれたりしています。
私たちは、テストというと、問題が紙に印刷されていて、それを解く。そして、そのスコアが高いか低いかで学力が高いのか低いかと考えていると思います。
しかし、当たり前ですが、テストというものはテストとして提示できるものしか、テストできません。テストで図ることができないものは、テストから外してしまっています。 それが悪いということではなく、それは限られた範囲の達成度、アチーブメントが分かるということだということなのです。
しかし、我々はテストで評価をするということが多く、それ以外の評価というものが分からなくなってしまい、テストで高い点数が取れるということが学力が高いということだと取り違えてしまっています。このことが問題なのです。
たとえば、 The knife I hold in my hand cuts well. という英文を読んで、関係代名詞でナイフを修飾していて、「私が手に持っているナイフはよく切れる」と訳すことができる。こういうことが分かれば学校では十分であるということになっているんです。Theをちゃんと付けられるかどうかとか、holdがhadだったらどうなのかとか、主語がどれか、動詞がどれが分かるとかそういうことが大丈夫かどうかということです。


テストが足かせになる

テストをして点数が高ければ、それ以上のことは測定する方法がないから、とりあえず成績は5、という評価が出てくる。テストをするということの大きな問題は、テストに出る範囲以上のことを勉強しないということです。テストに出ないことをやっても無駄だと。
英語の「長文読解のテスト」と言って、A4一枚程度の文を読んで問に答えなさいという。長文、長文を読むというのは何百ページもあるような分厚い本を読むということでしょう。だけど、よくあるテストのような切れ切れの英文を長文と呼んで、それが訳せるかどうかいうところで英語ができる、できないというレベルの議論をしている。
本の一部分だけを持ってきて、読むというのは、不自然でしょう。その本がもともと何について、どんな風に書かれたものなのかということに無関係にそれが読めるかどうかというテストをする。それを徹底していって、東京大学にも受かるというような人がいますが、その人の英語力というのはどういうものなのか。
日本の受験勉強の英語を徹底してやっていっても英語で原書を読んだり、論文を書いたりということが当たり前のようにできるというようにはなりません。それは、TOEICでも、TOEFLというテストであっても同じです。
テレビでハーバード大学の講義やディスカバリーチャンネルを英語で観て、それをメモして、まとめられたら基本的には英語が使えるということができるでしょう。
多少の誤字脱字があっても、それは些細なこと、後から直せばいいのです。何を言いたいのかということをつかんで、パラフレーズしていく。そんなことは、普通の学校では要求もされません。
ドラッカーの英語を聞いて、その内容を日本語で要約するというのも大変な能力ですが、それをさらに英語でもまとめることができるとなったらこれはちょっととんでもない能力です。そういう能力については全く検討されないで、テストで点数が取れるかどうか、ペラペラ喋れるかどうかということに終始している。テストが足かせになってしまっているのです。


ヨハネ生はなぜ本を読むようになるのか


受験勉強を徹底していって、英語ができるようになったとします。単語が分かる、文法が分かる、日本語に訳せると。そうだとして、その人が英語で本を読むようになるかというとそうはならないのです。
受験勉強のための読み方で、英語で本を読もうとすると「こんなにあるのか・・・」と途方に暮れ、1ページ、2ページ読んだところで挫折してしまいます。しかし、これは、日本語でも同じことです。
たいていのヨハネ生は入学当初は本をあまり読みません。読んだとしても、読みっぱなしで、要約したり、自分の言葉でパラフレーズしたりということはしません。映像を見ても、「面白かった」とか「つまらなかった」で終わりです。
要約したり、まとめたりということを通して、映画を見てない人がそのまとめを読んで見てみたくなるようなまとめができるかどうかが重要です。しかし、そんなことは普通の日本人はしません。もちろん学校でも同じです。
ヨハネ生も来たばかりの人は何でこんなことをするのか、どうしてヨハネ生は人前で平気でスピーチしたりすることができるのかと思っているかもしれません。これはヨハネに長くいるとみんなそういうことをやるようになります。
これは凄いことですよ。私が子どものころはそんなことはとてもできませんでした。作文のときに先生に「思った通りに書きなさい」と言われても、何も思い浮かばないので書けませんでした。あるとき、父親が「知識がないから書けないんだ。本を読めば知識がつく」と言ったので、本を読んでみましたが、本を読むのが嫌だった。
ヨハネ研究の森で私がよく言うのは「書くように話しなさい」ということです。しかし、書くように話すと言っても、書けないと話せないでしょう。本を読まないと文章は書けないわけです。
読むというのは、ただ本を読むというだけではありません。今、田端くん私と目が合ったでしょう。そこから表情を読む、目を読む。「この人は何を考えているのかな」と推測する。そういうことができないと読めるということにはならないのです。そして、それは本を読むということにもつながっていくのです。


三つのことば

外山滋比古さんが『ちょっとした勉強のコツ』で書いていることですが、ことばには三つの種類があるということを言っています。
まず、赤ちゃんとお母さんが話す言葉で、目の前にあるものについての話。そういう言葉を「α言語」と言います。目の前に具体的なものがあって、同じ場所にいるときの言葉。話す内容についてはお互いにだいたい分かっている。
たとえば、「元気か?」と言ったら、目の前にいる人のことだから見ればわかることを聞いている。これは話し言葉の世界。今ここにいてこの場のことが話題になる。赤ちゃんの言葉、君たちも友達と一緒にいるときはそういう言葉を使っています。
そうして、君たちが、2歳とか3歳になるとお母さんが君らに話しかける。「かわいいわねぇ。パパに似なくてよかったわね」(笑)なんて言って、しばらくすると生意気になってきますから、「パパに似たのかしら」と言ったりして、とにかくお母さんが徹底的に繰り返し語りかけるということが始まります。
話の意味自体はよく分からない。だけど、お母さんの声は聞きなれているから、体が反応します。分かったような気がするので、「むかしむかしおじいさんがいました」というような「今、ここ」にないことについての物語を聞いて、子どもは勝手にないものを想像する。虚構です。それから、これから起こること。未来のことまで語って聞かせる。そこで、「想像する」というトレーニングが行われます。
お母さんが次第に話題が切れてくると絵本や物語を読み聞かせたりするようになります。みなさんも物語を読んで聞かせてもらったでしょう。そうして、何回も読み聞かせをしてもらっている中で文字の世界、文字の奥の意味の世界、物語の世界があるということを知るのです。そうして、みんな本を読むようになる。この物語の言葉を聞いて想像をふくらませたり、自分で語ったりするのを「β言語」と言って、外山先生はそこができれば学校はだいたい大丈夫だと言っています。
6〜7歳で小学校に行くと、一年生の教科書には、全部自分が知っていることが書かれています。分かっていることを文字で書いているのです。そして、しばらくすると「分数」や「少数」といった概念が出てきます。普段、「ご飯を3分の1杯ください」なんて言わないでしょう。「もっと」とか「大盛り」というような表現を使う。
小学校の途中から自分が普段経験してないようなことが出てくるのです。知らないこと、体験したことがない世界が教科書に出てくる。
物語が読めるようになっている人はそこそこのところまで大丈夫です。ところが、「3分の1」というのは、それ自体は物語ではないでしょう。抽象的です。それを外山さんは、物語を取り除いていった論理の組み合わせの世界、脱物語、論理の世界。これとこれを組み合わせるとこうなると。これは「γ(ガンマー)の言葉」です。学校の勉強が苦手だと言う子は、そこのところが苦手なのです。
ヨハネ研究の森では、「その日に見たり、聞いたり、考えたりしたことを言葉にしてまとめてください」と言うのは言葉の訓練をしているのです。「自分が分かっていればいいんだよ」と言わないで、それを「今、ここにいない人にも分かるように」言葉にして表すのです。

言語教育で論理的思考力が育つ

言葉を身につけていくということは、東京工業大学の丸山先生が「プルームテクトニクスというものは」とか「地球の中にもう一つ大陸があって」とか壮大な仮説を言ってみせるでしょう。地球の中になんて行ったことがないのにどうして分かるのかと思うけれど、そういうことができるようになるということです。
根本は「物語る」ことができるようになるということ。自分がしたことや、人がしたことをどうやって語るのか。これは難しい。
学校のテストで問題が解けたか解けないかで普通は終わっているでしょう。問題を見て、「これは一体どういうことなのか」、「何を言おうとしているのか」ということを自分の言葉でまとめなおすことができるようになったら、勉強ができるようになりますよ。
自分で物語るということができるようになることが重要です。自分以外の人に伝えたり、共有したいという欲求が人間にはあるのです。そういうことができるようになるためには、書き言葉で話せるようにならなければなりません。
日本の学校ではそういうことを求めていません。講義をするとか、本を読ませて、「君が理解したことを文章で書きなさい」という問題にすれば、どんな理解の仕方をしてるのかも分かりますが、そんなテストは日本の学校ではしません。
アメリカの教科書は、とても分厚く、教科書の最初には「この教科書にはこういうことについて勉強します」と書かれていて、章ごとに「この章であなたが理解したことを書きなさい」という課題がある。自分の言葉で、自分が理解したことを表現できるようになることができるかどうか、それを要求してくるのです。
これは、小学校でも、中学校でも、高校でも、大学でもそれが前提になっている。そうすると、この生徒は学力が高いと言うときに見ているものが日本とは根本的に違うということです。
自分はこういう風に理解している、相手がどう理解してるかを聞いて、その場で自分の理解を組み替える。君たちはセッションでそういうことをしているのです。
だから、卒業生は大学に行っても、そういう力が発揮されてくる。そうすると大学の先生たちに「君は本当に日本人なのか?」「いったいどういう教育を受けてきたの?」とビックリされるようです。
実は、日本の外まで視野に入れると、「学力」という固定的な概念はないのです。アメリカで、高等学校に行って授業を聞いて、日本人は口をきかない。それで、ペーパーテストだけはよくできる。日本ではそれは学力が高いと言われるけれど、アメリカではそれでは存在してないと見られる。評価以前の問題。言葉を交わすということができるようになっていないと評価の土俵に上がってこないのです。
「ちょっと待ってください」と言って、一晩考えてから答えるということをやっていたら話は終わってしまいます。その場で自分の理解を組み替えて、その場で反応するということの積み重ねなんです。セッションで君たちはそれができるようになっていくのです。 言葉を使って自分が考えていることに形を与えていく。丸山先生は「ヨハネ生はとても論理的。言語教育を徹底することで論理的思考が身に付く証拠だ」と言っています。そういうものがヨハネ研究の森が考える学力なのです。