なぜヨハネ生は掃除を徹底するのか
2012年4月18日(水)

学ぶ構えがそこに現われる

入学以降、寮でも学校でも毎朝一時間ずつ掃除をしているヨハネ生たち。一体、ヨハネ研究の森ではどうしてこんなに掃除をするのでしょう。掃除とは一体なんなのか。なぜ掃除をしなければならないのでしょうか。


掃除をさせるのは大変

笠原正 私は、毎朝掃除のときには職員室を担当しています。職員室はなかなか大変な場所でね。ピカピカに片付けてもわずか二時間でカオスになってしまうんだ。だから、私は毎日ちゃんと掃除をして綺麗にしているんです。掃除をしたからといって、誰もほめてはくれません。別に見返りを求めてやっているわけじゃないですし、それはいいんです。では、一体どうして掃除するんでしょうか。
 私は昔ふつうの小学校の先生をしていました。その頃は私は子どもたちに掃除なんてさせなくてもいいんじゃないかと思っていた。受験勉強だけ頑張ってやればいいんじゃないかと思っていたんです。というのは、みなさん、小学生に掃除をやらせるのは本当に大変なんです。掃除したはずなのに、むしろ散らかっているということが起こるくらい難しい。
 だから、学校の先生の世界では「子どもに掃除をどうやらせるか」ということを研究している人たちがいるくらいです。
 大きく分けると二つの流派があって、「掃除のさせ方」というのは雑誌で特集が組まれるくらい先生にとっては興味のあるテーマなんです。私は、両方の流派の掃除のさせ方をマスターしています。そして、実際に小学生に掃除をさせていたんです。
 一つ目流派の掃除のさせ方は、「嫌なものを強制させてはいけない。楽しく、気楽にやらせればいい」というやり方です。目くじら立てずに、好きなようにやらせる。子どもは快適ですが、その分大人が頑張って掃除をしなければいけません。
 対して、もう一つの流派のやり方は、「『役割分担』と『責任の所在』を明確にせよ」という方法です。これをやるとどうなるかというと、みんな自分のところはやるようになります。
 私はこの方法でやらせていたけれど、大変でしたよ。何が大変かというと、掃除場所の担当を表にするのが大変だった。この列は誰が雑巾をかける、こっちは誰々と一つひとつ決めていく。これが大変。でも、それを作ると子どもたちは実際に掃除をします。
 だけど、問題が一つ。表にロッカーの上を掃除場所として入れ忘れたんです。そうすると、そのロッカーの上はずっとホコリかぶったままになる。自分の担当じゃないからってね。それでいいのかという話ですよ。


 杖道と英会話学校

 私は杖道を習っています。もう三段です。三段ですが、私は道場ではお茶汲みから掃除、雑用なんでも全部やっています。
 もしも道場で技だけ練習して、掃除もせずにさっさと帰ったら、私はその道場にはいられない。みんなと一緒に掃除をして、みんなと一緒に礼をして帰るんです。先生に教えを請うというのは、それが当たり前だと私は思っていました。
 ところが、ある日、電車に乗っていて英会話学校の広告を見たんです。その広告にはこう書いてあった。

「先生に合わせてもらおう。お金を払っているのだから」

 それを見て、私は何かが狂ってると思った。教えを請う側の人間が、先生に合わせてもらおう、お金を払っているのだからと。一体何を言っているのだろうとちょっと理解できなかったんです。
 私は杖道で先生に「あれを教えてくれ、これを教えてくれ」と要求したことはありません。そんなことをしたら、私は道を外してしまうでしょう。それはしてはいけないことなんです。


オープンマインドの構え

 内田樹さんが書いた『日本辺境論』という本に「かつての日本人は『それをすることでどんないいことがあるんですか?』とは絶対に言わなかった」という話があって、それをする人には「真のブレイクスルー」が来ないと言っています。
 「今日はこれをできるようにします。そのためには、これとこれとこれができるようになればいいので、それをやりましょう」と言われなければ学べない人には本当の学びはできないということです。
 さらに、その本の中で張良という武将が兵法の達人に極意を教えてもらいに行くという話があって、張良は達人に「兵法の極意を教えてください」と言うんです。そうすると、馬に乗った達人は何も言わずに片方の靴を落として、「拾ってくれ」と言うんです。
 張良は、靴を拾って履かせて、もう一度「私に兵法の極意を教えてください」と言うんです。達人はまた靴を落として、「拾ってくれ」と言います。このとき、張良は悟るんです。そして、兵法の極意を得て無敵の武将になるという話。
 内田樹さんは、「靴の意味を自分で考えた」ということに意味があると言っています。「これに一体なんの意味があるんだろう」と自分で考えた。そして、勝手に答えを見つけたんです。
 「全てのことには意味がある」と考える構え。これを「オープン・マインド」と言って、これこそが学ぶ人間の構えであると言うのです。
 損得、これをやればこうなるということをはじめから教えてもらえなければやれないというのは、「オープン・マインド」の対極にある構えです。自分で一体これに何の意味があるのかと考えること。見よう見真似でわけも分からずにやっているうちに自得する。そういう学びこそが本来の学びなのではないかということです。私はそうやって掃除もやってきました。この中に学びの本質がつまっているのではないでしょうか。