私たちにとって音楽とはなにか?
2012年9月22日(土)
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9月22日(土)、私たちは学園祭を開催するにあたって、この間継続して江戸時代について検討している関係から、音楽にフォーカスし、江戸時代の音楽と現代の音楽についてなにがどのように違っていたのだろうか、ということを考える機会を持ちました。
音楽とは何かを考える糸口として、有名な映画『ビルマの竪琴』を、保護者の皆さんと一緒に観ました。
なぜ歌を歌うと心を一つにできるのか、私たちが慣れ親しんだ唱歌や童謡は、一体、いつから歌われるようになったのか、江戸時代にはそのような音楽はなかったはずではないのか、そのような観点から検討を始めたのです。
この日は、保護者の皆さんと共に、間に十数曲、歌を挟みながら、時の流れを共有していきました。



音楽は、人を幸せにする。時には物悲しく、時には士気を高めるように、音楽は容易に人の心を動かす。ヨハネ研究の森では、校歌や国歌、聖歌をみんなで歌う機会がたくさんあります。お祝いをしたり、式を行ったり、祈ったりするとき、共に歌うことを通して一つになっているのです。しかし、今私たちが触れている音楽は一体いつ、どのように生まれてきたのでしょう。



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     ビルマの竪琴

1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化の一途をたどっていた。物資や弾薬、食料は不足し、連合軍の猛攻になす術が無かった。

そんな折、日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教え込んでいた。隊員達は歌うことによって隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていた。彼ら隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、ビルマ伝統の竪琴「サウン・ガウ」の演奏はお手の物。部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的だった。さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていた。

やがて日本は無条件降伏をする。小隊は捕虜となり、ムドンの捕虜収容所に送られ、労働の日々を送る。

しかし、山奥の「三角山」と呼ばれる地方では降伏を潔しとしない小隊がいまだに戦闘を続けており、彼らの全滅は時間の問題だった。彼ら日本軍を助けたい隊長はイギリス軍と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになる。しかし、説得は失敗。彼はそのまま消息不明になってしまう。

   Wikipediaより引用

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説得は論理ではない

笠原 ビルマの竪琴、いい映像ですね。おぼろ月夜とか、あおげば尊しが流れると私は涙が流れるんです。いいですよね。

水島の部隊が無条件降伏するシーンがあるでしょう。タイの村でイギリス軍に囲まれて、一触即発の状態。三角山の部隊も同じ状況でした。けれど、タイの村の方は無条件降伏したけれど三角山の方は戦って全滅してしまった。

この違いについてまず、考えてみたいんです。『ビルマの竪琴』の書籍のほうを読んでみると、あのシーンは映像とはすこし違う描き方をしているんです。

タイの村でイギリス軍に囲まれている中、水島が「埴生の宿」を弾く。そうするとイギリス人も歌ってきて、それで映像では、次のシーンでは降伏したってなってるんだけれど、本ではこう徐々にイギリス軍が近づいてくるんです。歌いながら。日本軍も同じ曲を歌いながら近づいていって。ずっと歌う。たき火を囲んで夜まで歌う。お互いに言葉は通じなくても同じ曲で歌える歌がたくさんあって、どんどん一体感が生まれていくんです。そして、イギリスの兵が家族の写真を日本兵に見せたり、「お前のも見せろよ」と言って、見せ合ったりして、「同じ人間だよね」と思えるようになっていくんです。

タイの村を囲んでいるイギリス軍は、まだ一緒に歌う前の時点では、「日本兵は凶暴で、人間じゃない」って思っていたはずですよ。けれど、それが歌を一緒に歌うことを通して変わっていく。日本兵の方も変わっていくんです。そうして、実は、もう日本は降伏しているんだと言われて、それを素直に受け入れる。

けれど、三角山の方は水島が隊長を説得しようとするんだけど上手くいかない。水島は完全に論理的に正しく説得していたでしょう。

「もう日本は降伏して、負けた。これ以上戦っても無駄だと。無駄な死を誰も喜びはしない。だから、降伏してください」と。水島は正しいんです。けれど、それを聞いた隊の人たちは「臆病者」とか、「我々は絶対に降伏などしない」と言って全然納得しなかった。

私は論理的に正しければ説得できると思っていたことがあるけれど、社会に出て生きてきて、そうではないんだということを知っていきます。

「我々は同じだ」という安心感、そういうものがなかったらいくら必死に説明しても受け入れてはもらえない。逆に、それさえあれば、何でも受け入れられる。

同じ歌を一緒に歌うとみんな笑顔になる。
我々は一緒だ、同じだよねと思えるようになる。
これはいったいどうしてなのか。

音楽が国をつくる

同じ歌を一緒に歌うとみんな笑顔になる。「我々は一緒だ、同じだよね」と思えるようになる。これは一体どうしてなのでしょう。

唱歌、「あおげば尊し」や「ほたるの光」のような日本人ならみんなが歌える歌は明治20年頃に国で決められたんです。そして、それは学校を通して教えられた。だから、唱歌を聞くとそのときの記憶が思い起こされてくるようになっているんです。

明治という時代に、一体どうしてそういうものをつくったのでしょうか。江戸時代に唱歌はあったんでしょうか。おそらく、江戸時代に日本全国で同じ歌を歌うということはなかったでしょう。明治政府は国づくりの一貫で唱歌をつくった。これが、いったいどういうことなのか考えてみましょう。





この日、ヨハネ生みんなで唱歌、聖歌、国歌、学園の歌など十数曲を披露しました。
その中の何曲かを動画として公開しましたので、ぜひお聴きくださいね。


ヨハネ生が歌う「故郷」(ふるさと)


ヨハネ生が歌う「野空海」(のぞみ)


ヨハネ生が歌う「地球星歌」(ちきゅうせいか)